2026年3月のネット法話「他人の幸せを祈るとき」
- 副住職

- 3月9日
- 読了時間: 3分

つい先日、友人がこんなことを言っていました。
「最近、お墓参りを日課にしているんです」と。
その友人はまだ四十代。
同世代で、日課のようにお墓へ通う人に出会うことは、そう多くはありません。
話を聞くと、最近少し悩み事があったそうです。
別の友人に相談したところ、「お墓参りをしてみな」と勧められたとか。
「なぜお墓参り?」そう思いながらも、 お彼岸でも月命日でもない日に足を運びました。
お墓の前で、今の悩みや心の内をそのまま語ってみた。
けれど、特別な感覚はなかったそうです。
石のお墓はいつもと変わらず、 静かにそこにあるだけだったといいます。
それでも、彼は続けました。
ある日、ふと問いかけたそうです。
「そちらの世界はどうですか。いいところですか。楽しく過ごしていますか。」
その帰り道、少し心が軽くなっていることに気づいたといいます。
悩みが解決したわけではない。けれど、胸の奥にあった重さが、 わずかにやわらいでいた。
また別の日には、「どうぞ楽しく過ごしてくださいね」と、 お父さまの幸せを祈ってみた。
そのときは、はっきりと心が明るくなったそうです。
そこで彼は気づきました。
自分の悩みを聞いてもらおうとしていたときよりも、 相手の幸せを願ったときのほうが、心が満たされたということに。
人は、人との関わりの中で自分をつくっています。
自分ひとりで完結している存在ではありません。
嬉しい言葉をかけられれば、心は温かくなる。
冷たい言葉を受ければ、たちまち暗くなる。
私たちは、つながりの中で揺れ動きながら生きています。
だからこそ、他人の幸せを心から祈るとき、 その祈りは巡り巡って、自分の心を整えてくれるのです。
仏教ではこれを「諸法無我」と申します。
あらゆるものは単独では存在せず、関係の中で成り立っているという真理です。
私という存在も、父や母、ご先祖、友人、地域社会とのつながりの中で、 はじめて「私」として存在しています。
お墓参りとは、亡き人に会いに行く時間であると同時に、 自分がどれほど多くの命に支えられているかを思い出す時間でもあるのです。
三月、春のお彼岸を迎えます。
お彼岸とは極楽浄土を意味します。
春分の日を中日として、 太陽が真西に沈むそのとき、西方極楽浄土が最も近く感じられるといわれてきました。
夕日がゆっくりと西の空へ沈んでいく。
その先に、あの人がいるのだろうかと、 誰もが自然と想いを馳せることができます。
だからこそ、お彼岸は今日に至るまで、多くの人々に大切にされてきました。
それはきっと、誰もが愛する人との別れを経験し、 その悲しみを知っているからでしょう。
この世で離れることは悲しい。けれど、 念仏の教えは私たちに希望を与えてくれます。
南無阿弥陀仏と称える者は、命終わるとき、 極楽浄土に往生し、再び会うことができる。
「また会える」この約束があるからこそ、 私たちは前を向くことができるのです。
ありがたいことです。極楽浄土へ先立たれた方々を想い、 どうぞお墓に足を運んでみてください。
そして、こう祈ってみてはいかがでしょうか。
「どうぞ、安らかに。どうぞ、幸せでありますように。南無阿弥陀仏。」
きっと帰り道、少し心が温かくなっていることに気づかれるでしょう。
お念仏は、極楽への切符です。
どうぞ忘れることなく、日々お称えください。
いつか訪れる自らの最期のためにも、 そしてすでに極楽におられる皆さまのためにも。
お彼岸が、心を整え、 つながりを思い出すひとときとなりますように。
南無阿弥陀仏