2026年1月のネット法話「目標を立てるということ」
- 副住職

- 2月5日
- 読了時間: 4分

新しい年を迎えると、私たちは自然と「今年はどんな一年にしようか」と思いを巡らせます。
年始にはお屠蘇をいただきますが、浄楽寺ではお内仏の前で念仏を称え、
元旦には「昆布」でよろ昆布、
二日には「豆」でまめに働く、
三日には「れんこん」で先を見通すと、
縁起を担ぎながら家族一人ひとりが口にします。
皆さんのお宅にも、それぞれに受け継がれてきたお正月の過ごし方があることでしょう。
年のはじめには、寺社へお参りされた方も多いことと思います。
お寺では願いを仏さまに預け、神社では「予祝」として、
あらかじめ叶った姿を祝い祈ります。
古くから日本人は、
豊作や大漁を前もって言祝ぎ、
良き結果を引き寄せてきました。
小正月に行われるどんど焼き(この辺りではおんべ焼き)も、
歳神さまを送り、一年の無病息災や五穀豊穣を願う、予祝の行事です。
このように一年の善きことを願うとき、
まず大切になるのは、
「どのような状態を良しとするのか」を知ることだと思います。
そのためには、自身の内側に目を向けることが欠かせません。
忙しさの中で見失いがちな、自分の心の在り処を静かに見つめ直すこと。
何を求め、何に迷い、どこへ向かいたいのかを知ることで、
はじめて目標は形を持ち始めます。
仏教の始まりは、お釈迦さまが苦しみの中から真理を見いだし、
その道を人々に説かれたことにあります。
お釈迦さまが示されたのは、苦しみから離れる道であると同時に、
外に答えを求めるのではなく、自らの生き方を見つめ直すという姿勢でした。
また、法然上人は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と説かれました。
自分の力で理想像を作り上げようとするのではなく、
至らぬ身であることを受け止め、そのうえで阿弥陀仏に身を委ねて歩む。
その姿勢こそが、迷い多き私たちの確かな指針となります。
目標とは、他人と比べて優れるためのものではありません。
自分の願いを知り、その願いに正直に、一歩ずつ歩んでいくための灯りです。
念仏も同じく、数や形を競うものではなく、日々の歩みを確かめるためのよりどころです。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「人間は、目標を追い求める生き物だ。目標に向かい努力することによってのみ、人生が意味あるものとなる」と述べています。
人は本来、向上心を持って生きる存在です。
自分自身で目標を持ち、努力し、自分の力で生きていくことは、
自立を促し、人の成長へとつながります。
しかし、明確な目標を持たず日々に流され、
甘えや過保護を受け入れ、
与えられることに慣れてしまうと、
自立は難しくなります。
意味のある人生を歩むか、
流されるように日々を重ねるかは、
目標を持てるかどうか、
すなわち向上心を失わずにいられるかどうかにかかっています。
とはいえ、目標は大仰なものでなくてよいのだと思います。
昨年の反省があるなら、同じことを繰り返さないことでもよいでしょう。
あるいは、もう一歩踏み出してみる、
という小さな決心でも構いません。
大切なのは、他との比較ではなく、
自身の内面と向き合いながら考えることです。
それが、続ける力を生みます。
また、目標に段階を設けるのも一つの方法でしょう。
まずはこれ、次にこれ、そして今年の十二月にはこうなっていたい、
と静かに思い描いてみるのもよいかもしれません。
修行を終え、僧侶になる際には「日課誓約」というものを結びます。
日々に何遍のお念仏を称えるかを定めるのですが、一日〇回なら一年で〇回になるな、
では〇回にしよう、と決めて師に見ていただいたところ、
「これではだめだ。少なすぎる」と戒められたことがあります。
少し背伸びをし、
その目標に近づこうと努力することの大切さを教えられた出来事でした。
新しい一年のはじまりに、どうか一度立ち止まり、
静かに自分の心を見つめてみてください。
その内観の中から生まれた目標は、きっと一年を通して、
皆さんを支える確かな道しるべとなることでしょう。
南無阿弥陀仏