浄楽寺の寺伝
寺伝によると、文治5年(1189)に源頼朝が父・源義朝の菩提を弔う為に創建された(鎌倉にあった)勝長寿院を、建永元年(1206)の台風による堂宇破損を機に和田義盛と北条政子の手で現在地に移したとされる。鎌倉では大御堂などとも呼ばれ、現在も地名として残る。また、和田義盛が建てた七阿弥陀堂の内の一つという説もある。運慶作の不動明王立像、毘沙門天立像の胎内から発見された仏像の魂である月輪形木札に「文治五年己酉三月廿日庚申 大願主平義盛芳縁小野氏 大佛師興福寺内相應院勾當運慶小佛師十人 執筆金剛佛子尋西淨花房」と記載されることから仏像の発願者は平(和田)義盛と芳縁(妻)小野氏が願主と判明している。これにより勝長寿院の仏像が移されたという説は否定されつつある。鎌倉光明寺の資料によると建治元年(1275)に浄土宗4祖寂慧良暁上人(浄土宗大本山鎌倉光明寺2世)が移住し中興したため開山としているがそれ以前の寺の歴史は不明。天正19年(1591)徳川家康より朱印地3石を賜わった。火災や震災などによって幾度か堂宇が半壊しているが、いずれも再建されている。本尊である阿弥陀三尊と不動明王・毘沙門天は全て国指定重要文化財に指定されている。境内墓地には日本近代郵便制度を整えた前島密翁の墓がある。
浄楽寺所蔵の文化財について
【鎌倉時代運慶仏】
寺伝では仏像は、源頼朝が鎌倉時代に建立した鎌倉三代寺院の一つ、勝長寿院の「成朝作阿弥陀三尊」が移設されてきたと伝えられ旧国宝に指定されていた。大正15年に阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)像のみ国指定重要文化財となり、その後、昭和34年仏像研究の久野健氏による調査が行われ、毘沙門天像の胎内から木造月輪形の銘札が発見され、続いて不動明王像の胎内にも同様の銘札が発見された。三尊像の胎内には同様の銘札は確認できなかったが、胎内に墨書きされた陀羅尼が同じ筆跡とされ5体全てが運慶作の仏像であることが決定付けられた。昭和45年に横須賀市・神奈川県・国の協力の元、仏像を納める収蔵庫が建立され、その後昭和50年不動明王像・毘沙門天像も国指定重要文化財に指定された。
【江戸時代釈迦三尊図】
浄楽寺の釈迦三尊図は、本堂の来迎壁背面に描かれているもの。画面左下の款印から、天保8年(1837)の制作で鎌倉雪之下在住の戸川雪貢の筆とされる。地袋板戸には4点の蓮池図もある。幕末期に製作された仏画、寺院障壁画の大作という点に加え、鎌倉在地画家の希有な画蹟として評価できるとしている。
横須賀西海岸
浄楽寺がある芦名の地は、鎌倉・逗子・葉山の延長線である海岸西通り(134号線)沿いにあり、葉山御用邸近くで景勝地も多い。近年は京浜急行による観光プラン「葉山女子旅」が大成功して、若い女性客が手軽に来る観光地として定着しつつあり、2020年3月14日には新逗子駅が逗子・葉山駅に改名して話題となった。また、土地柄もあり、欧州等海外からの移住者も多く、横須賀市は米国海軍の基地もあることから近隣に米国人も多く居住している。さらに、映画館「シネマアミーゴ」や「神奈川県立近代美術館葉山館」、「山口蓬春記念館」、「カスヤの森現代美術館」等の海外とも繋がっている文化施設も多く、毎年行われる「逗子アートフェスティバル」や「葉山藝術祭」等文化発信イベントも年間を通じて数多くあり、旅にはもってこいの場所である。
「食」や「文化」を楽しみながら
「海や山」も堪能できる
湘南から続く海には多数の漁港があり、各所の飲食店では新鮮な魚をいただくことができる。また、潮風を浴びたミネラルを多く含む土で育てられた三浦半島のブランド野菜「三浦野菜」も楽しむことができる。1日しっかりと使って、文化だけでなく食・自然とこの地をまるごと堪能していただきたい。