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2026年2月のネット法話「鬼は外、では終わらない」




日本には一年に四回、「節分」があります。


節分とは季節の分かれ目を意味する言葉で、

立春・立夏・立秋・立冬の前日を指しますが、

一般には立春の前日、二月の節分がよく知られています。


季節の変わり目には邪気が生じると考えられてきたため、

豆まきなど邪気を払う行事が行われてきました。


この節分には、「鬼は外、福は内」と声に出し、

豆をまいて鬼を追い払う「追儺(ついな)」の行事が行われます。


多くの方にとって、節分とはこの光景を思い浮かべる行事ではないでしょうか。


鬼とは、角が生え、牙をむき、恐ろしい姿をした

存在として描かれることが多いと思います。


しかし、仏教に登場する鬼、例えば邪鬼や餓鬼は、

必ずしもそのような姿ばかりではありません。


というのも、仏教における「鬼」という概念は、

三毒を象徴していると説かれるからです。


三毒とは、煩悩の根本である 貪・瞋・痴

すなわち、貪り、怒り、愚かさのことを指します。


貪りの青鬼、怒りの赤鬼、愚痴の黄鬼、

このように、止むことのない欲や感情を鬼の姿で表しているのです。


そのように考えると、

鬼とは外にいる存在ではなく、私たちの心の中に巣くう存在であるとも言えます。


怒り、妬み、慢心、怠け、比較、諦め、正しさに執着する心。


これらを仏教では「煩悩」と呼びます。


煩悩とは何かといえば、それは自分自身、

あるいは他者に苦しみをもたらす感情や行いです。


仏教でいう「苦」とは、耐え難い激しい苦痛だけを指すのではありません。


少し心が乱れた状態、どこか無理をしている状態、

そうした良くない状態のことを指します。


その小さな苦が積み重なり、連なり、膨れ上がったときに、

私たちが想像するような大きな苦痛となって現れるのです。


病気も、未病のうちから予防し、手当てをすることが大切であるように、

心の苦もまた、小さなうちから気づき、整えていくことが重要になります。


浄土門では、この煩悩を完全に滅することは、

私たち凡夫にはできないと説かれます。


できるだけ罪を重ねないように努めることは大切ですが、

煩悩そのものを無くしきることはできない。


その現実を正面から受け止めるのが、浄土の教えです。


心に巣くう鬼、すなわち煩悩とは、

死ぬまで付き合っていく存在です。


だからこそ、大事に至らないためには、

まずその存在に気づくことが入口となります。


そう考えると、節分とは、外に鬼を追い払う行事であると同時に、

自分の内にいる鬼に気づき、悔い改め、

明日をよりよく生きるための儀式であるとも言えるでしょう。


では、今の世の中はどうでしょうか。


正義の鬼「自分が正しい」と疑わない心。

怒りの鬼、思い通りにならないことへの苛立ち。

叩く鬼、言葉を尽くす前に、心が暴力に傾いてしまうこと。

許さない鬼、自分を省みず、他人ばかりを裁く心。


「腹立たば 鏡を出して 顔を見よ 鬼の顔が ただで見られる」


気づかぬうちに、私たち自身が鬼になっていることも、

少なくないのではないでしょうか。


だからこそ、節分に外へ向かって豆をまきますが、

その鬼は本当は自分の中にいるのです。


「鬼は外」と声に出すことは、鬼を追い出すためだけではなく、

鬼の存在に気づくための言葉でもあります。


どうか皆さんも、節分の行事に親しみながら、

豆まきを楽しみつつ、自身を顧みるひとときとしていただければと思います。


また、浄土門では、心に鬼を抱えたままでも、

そのままの心で念仏を称えれば、阿弥陀仏に導いていただけると説かれます。


心の鬼とともに念仏を称え、寒い冬を越えてまいりましょう。


南無阿弥陀仏


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