2025年7月のネット法話「見えないものを意識するということ」
- 副住職
- 7月4日
- 読了時間: 3分

汗流し涙流して燃ゆる夏。
この一瞬一瞬にも、誰に知られることもない、 さまざまなドラマがあるものです。
最近も、地域の出来事を通して、人の思いやつながりが、 数字や評価として表れる場面を目にしました。
それぞれに願いがあり、託された期待があり、 その裏には語られぬ努力や葛藤がある。
その光景に触れたとき、 見えないものの存在の大きさを、 しみじみと感じました。
先日、大楠中学校で体育祭が行われました。
遠くから応援していた私には見えなかった、 子どもたち一人ひとりの奮闘や成長が、 帰宅後の娘の話から伝わってきました。
協力や信頼、 目標に向かう努力、 諦めない気持ち。
そうしたものが競技を通してかたちとなり、 点数や順位といった目に見える評価につながります。
体育祭は授業の一環ですし、 勝ち負けが重要ではありません。
しかし、その評価が見えるからこそ熱くなり、 そこに物語が生まれます。
とはいえ、当事者と傍観者とでは、感じ方に大きな違いがあることもまた事実です。
私たちは、どうしても目に見えるもの、 すぐに結果が出るものに意識を奪われがちです。
けれど本当は、見えないところにこそ人の思いがあり、 関係があり、信じる心があります。
我々が日々摂る食事も、便利に過ごせる暮らしも、 名前も知らない誰かの支えによって成り立っています。
公共交通機関やそれぞれのまちで出会う見ず知らずの人々にも、 それぞれに人生があり、ドラマがあります。
そう想像してみると、自分の世界が少し広がる気がするのです。
『観無量寿経』には 「一々の光明、遍く十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨て給わず」とあります。
阿弥陀仏の光明は、東西南北、天地という十方に 存在するすべての世界に分け隔てなく注がれています。
見返りを求めず、求めていないものにも光を注ぐ。
それが仏の大慈悲です。仏という存在は自らの誓いを実現し覚りを開き、
人々を救いたいと強く願う心が仏のご利益となります。
阿弥陀仏の場合は念仏をとなえるものを救うという誓いがたれられています。
しかし、その光のありがたさに気付き、 念仏を称え、極楽往生を願う心があってこそ、 本当の意味で届くと説かれます。
私たちは実際に見なければ、 触れなければそこにあると気づけないことばかりです。
自分の目に見えるものだけがすべての世界だと思い込んでしまいます。
しかし、実際は無数のご縁に生かされているのです。
顔の見えない誰かを想う心、 まだ見ぬ人にも功徳を回そうと願う心。
有縁無縁のご縁に感謝し供養する心。
その心が、人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。
見えない自分を顧みて、見えないものを軽んじるのではなく、
ご縁は確かにそこにあるのだと大切にする心をもって、日々を丁寧に歩んでまいりましょう。
南無阿弥陀仏