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執筆者の写真副住職

浄土宗開宗850年を迎えて「法然上人一代記」⑯「流罪から四国布教へ」




2024年、法然上人が43歳で浄土宗を開宗されてから850年の月日が経とうとしています。


現在、全国では浄土宗開宗850年を記念して様々な事業が行われています。


昨年、浄楽寺におきましても、 増上寺布教師会の神奈川メンバーにて、 記念対談・記念念仏などが行われました。


800年以上もお念仏が縁としてつながり、 現代のわれわれの元にも教えとして伝わっているとは、本当に有難いことです。


法然上人がお念仏のみ教えに導いて下さらなければ、 来世での極楽往生は叶わず、輪廻を繰り返すばかりでした。


この850年のありがたさを皆さんにも感じていただくために、 法然上人の一代記を連載でお送りしたいと思います。


「十六、流罪から四国布教へ」                                                                                            

四国流国時、法然はすでに七十五歳。


配流ともなれば、今生の別れとなる可能性もあり、 門弟たちが法然を心配し表向きにだけ念仏を停止してはどうか、 という提言さえもなされました。


しかし法然は、 「遠く離れていても念仏の同士は固く結ばれていることを忘れずに念仏を称えるべし」と励まし、「かねてから田舎の素朴な人たちに念佛の教えを勧めたいと思っていたが、今回このような形でその後円をいただいて長年の望みが叶うのは朝恩である」と答えています。


その後法然は、九条兼実とも別れを惜しんでいます。


兼実は法然を法性寺に招き、 最後の語らいを行いました。


法然は浄土での再会を約束し、 次の和歌を詠んで別れました。


「露の身はここかしこにて消えぬども心は同じはなのうてなぞ」 その兼実は法然を見送ってから一ヶ月もたたない四月七日に世を去っています。


一二〇七年三月一六日、法然は六〇人余りの門弟に見送られ、 鳥羽の南の門から川船で淀川を下り、都を後にします。


途中、摂津の経ヶ島で村人に、播磨の高砂で漁師の老夫婦に、 同国の室の泊で遊女に教えを説いて導き、二六日に塩飽島に到着しました。


この経路は源平合戦の戦場となった地をたどっていることから法然は戦場で命を落とした人々を鎮魂する目的でこの経路を選んだのかもしれません。


その後、讃岐の国小松庄の生福寺に落ち着きました。


讃岐は九条良経の旧領であり、 越後・土佐との交換の約束ができていたものの、 法然の配流時にはまだ九条家の所領でした。


こうした関係から、法然はこの後、配流先の土佐に赴かず、 讃岐に滞在し続けます。


おそらくこれは兼実の配慮により配流先が遠流の 土佐から中流の讃岐へ変更されたと考えられます。


いずれにしろ、法然は配流の身でありながらその道すがら自由に念仏教化を続け、 多くの人々との縁を結んだのです。


続く


#法然上人 #浄土宗開宗850年

#法然上人一代記

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