2024年、法然上人が43歳で浄土宗を開宗されてから850年の月日が経とうとしています。
現在、全国では浄土宗開宗850年を記念して様々な事業が行われています。
昨年、浄楽寺におきましても、 増上寺布教師会の神奈川メンバーにて、 記念対談・記念念仏などが行われました。
800年以上もお念仏が縁としてつながり、 現代のわれわれの元にも教えとして伝わっているとは、本当に有難いことです。
法然上人がお念仏のみ教えに導いて下さらなければ、 来世での極楽往生は叶わず、輪廻を繰り返すばかりでした。
この850年のありがたさを皆さんにも感じていただくために、 法然上人の一代記を連載でお送りしたいと思います。
「十五、建永の法難」 興福寺側は念仏庇護の宣旨を不服としてなおも念仏の停止を求め続けました。
さらに法然の弟子を名指しで批判し召し出す御教書が重役に届けられました。
こうした興福寺側の強硬姿勢に朝廷側も苦慮していたようです。
公家たちも念仏を禁止すれば自分たちの身の上に罪業の報いが降りかかってくるのではないかと恐れ、その処断を積極的に働きかけるものは少なかったのです。
何より、後鳥羽上皇が専修念仏に一定の理解を示し、 ことを穏便に済ませたいと考えていたため、朝廷側では何とか興福寺側も納得させつつ、 専修念仏を救う方法はないかと思案に暮れていたのが実情でした。
法然の支援者九条兼実の息子で摂政の九条良経が急死したことで 問題は一時棚上げされましたが、 興福寺側は法然よりの良経が死去したことを好機ととらえ、 速やかに念仏停止の宣旨を下すことを要請します。
そしてついに十二月、専修念仏への弾圧を決定的にする事件が起きました。
後鳥羽上皇が熊野に参詣中、 留守を預かる女官の松虫と鈴虫が、 法然の門弟安楽と住蓮が主催した「六時礼讃」の法要に参加し、 出家してしまったのです。
六時礼讃は善導の『往生礼讃』に節をつけ、 中夜を六つに分けて礼拝と讃嘆を行う法要儀式で、 その哀歓を帯びた声に感銘を受けるものが多く、 女性の支持者も多かったようです。
さらに安楽が女官と密通したといううわさに、上皇は激怒。
ついに朝廷による専修念仏への弾圧が始まりました。
まず、女官出家の発端を作った住蓮と安楽は処刑と決まり、
法然も責任を免れず、二月二十八日には四国の土佐への配流が決定。
流罪にあたり還俗を命じられ、藤井元彦の俗名をつけられました。
法然の流刑に至る弾圧を「建永の法難」と呼びます。
続く
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