top of page

2026年6月のネット法話「至らない私からの感謝」




「我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ」

(法然上人御法語後編第五章「無上功徳」)


 6月になりました。4月から新しい年度が始まり、 新しい環境で過ごされた方も多かったことでしょう。 最初は緊張していたことも、二か月ほど経つと少しずつ慣れてまいります。 慣れること自体は悪いことではありません。 しかし、慣れは時に感謝を忘れさせます。 毎日食事ができること。 家族が元気でいてくれること。 仕事があること。 住む家があること。 本来はどれも当たり前ではありません。 それでも私たちは、いつしかそれを当然のことと思うようになります。 そして、「自分はそれなりに頑張っている」「ちゃんとやっている」と考えるようになります。

法然上人のお言葉は、そのような私たちに向けられています。

 「善根薄少」とは、善い根が薄く少ないという意味です。 厳しい言葉のようにも聞こえますが、 法然上人は自分を卑下しなさいと仰っているのではありません。 ありのままの自分を見つめなさいと教えてくださっているのです。 私たちは良いことをすれば満足します。 誰かに親切にしたり、手助けをしたりすると、 「自分は善いことをした」と思います。 しかしその一方で、家族にきつい言葉をかけたり、 感謝を忘れたり、自分本位に振る舞ったりもしています。 善いこともするけれど、至らないことも多い。 それが私たちの本当の姿ではないでしょうか。 また反対に、自信を失ってしまう人もいます。 周囲と比べて、「自分は何もできない」「自分には価値がない」 と思い悩むこともあります。 しかし法然上人は、自分を立派な人間と思い上がる必要も、 自分を価値のない人間だと責める必要もないと教えられます。 ただありのままの自分を知ること。それが善根薄少の心です。

 私は子どもの頃、不思議に思っていたことがありました。 誰かから何かをいただく時、大人たちは決まって「そんな、いただけません」と遠慮するのです。子ども心には「もらえばいいのに」と思っていました。 けれども大人になって分かったことがあります。 それは、「私はそれほどのことをしていません」 という謙虚な気持ちだったのです。 一方で、人に何かを差し上げる時には、 「いつもお世話になっているから」「喜んでほしいから」と進んで渡します。 もらうことには遠慮するのに、与えることには遠慮しない。 その根底には感謝があります。 まだ十分に恩返しができていない。 まだまだ足りていない。 その思いが人を優しくし、人とのご縁を大切にさせるのです。

 法然上人は続けて、「一度名号を称えるに大利を得とす」と仰います。 南無阿弥陀仏と一声称えるだけでも大きな功徳があるというお言葉です。 しかし、一度称えれば終わりということではありません。 親に「ありがとう」を一度言えば十分でしょうか。 そうではありません。 感謝しているからこそ、何度でも伝えたくなります。 念仏も同じです。私はまだまだ未熟である。 それでも阿弥陀さまは見捨てずにお救いくださる。 そのありがたさに気づくからこそ、「南無阿弥陀仏」と自然に声が出てくるのです。 念仏は義務ではありません。 感謝のあらわれであり、わが身を知ることでその道のみを選ぶという心です。 法然上人は、善根が少ないから往生できないとは仰いませんでした。 むしろ善根薄少の身だからこそ、阿弥陀さまの本願を頼み、 お念仏を申すのだと教えてくださいました。   日々の暮らしの中で、 自分はまだまだ足りない存在であることを忘れず、 同時に阿弥陀さまに支えられて次の世を望むことへの感謝を深めながら、 お念仏をお称えしてまいりたいものです。

南無阿弥陀仏

 
 
© 2014 by Jorakuji design
bottom of page