2026年10月のネット法話「一声のお念仏から、日々のお念仏へ」
神無月と十夜法要 ― お念仏を相続するということ
10月は、昔から「神無月」と呼ばれます。
「10月になると全国の神々が出雲へ集まり、それぞれの土地から神さまがいなくなるので神無月という。そして神々が集まる出雲では、反対に『神在月』と呼ぶ。」
そんな話を、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
ところが、「神無月」という名前の由来には諸説があり、「神がいない月」という説明は、後の時代に広まったものともいわれています。「神の月」という意味ではないかという説もあります。
昔から伝えられていることは、いつの間にか「そういうものだ」と私たちの中に定着していきます。
誰かから聞き、その人もまた誰かから聞き、長い年月をかけて伝わっていく。その中で、もともとの意味とは少し違った形になってしまうこともあります。
これは、仏さまの教えについても同じです。
一声のお念仏と、念仏を相続すること
法然上人は、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまのお名前を称えるお念仏によって、極楽浄土への往生を願う道を私たちにお示しくださいました。
阿弥陀さまは、私たちが心からその救いを信じ、お念仏を称えるならば、その声を決して捨てることはないと説かれます。
ですから、一声のお念仏であっても、決して空しいものではありません。
ところが法然上人の時代にも、この教えの一部分だけを取り上げ、
「一度お念仏を称えれば、それでもう十分である」
「往生できるのだから、その後はお念仏を続けなくてもよい」
と考える人たちが現れました。いわゆる「一念義」と呼ばれる考え方です。
けれども、法然上人が勧められたのは、そのような念仏ではありませんでした。
一声のお念仏にも往生の功徳があると深く信じながら、だからこそ、今日も称える。明日も称える。そして人生の最後まで、お念仏を相続していく。
それがお念仏に生きるということです。
十夜法要に込められた教え
さて、10月には浄土宗の大切な法要である「十夜法要」が勤められます。
十夜法要は、『無量寿経』に説かれる教えをもととしています。
私たちが生きるこの娑婆世界は、思い通りにならないことばかりです。欲や怒り、迷いといった煩悩に囲まれ、毎日の生活の中では、善いことをしようと思っていても、なかなか思うようにはいきません。
それに対して仏さまの世界は、善を修めることを妨げるものが少なく、修行しやすい世界であると説かれます。
だからこそ、さまざまな誘惑や苦しみのあるこの世界で善い行いをすることには、大きな意味があります。
『無量寿経』には、この娑婆世界で十日十夜、善い行いを修めることは、仏さまの世界で千年善を修めることにも勝る、と説かれています。
そこから十夜法要が勤められるようになりました。
しかし現在、浄楽寺の十夜法要は一日です。大本山光明寺でも、現在は十日十夜ではなく、期間を短くして勤められています。
では、「一年のうち、この一日だけお念仏を称えればよい」ということでしょうか。
もちろん、そうではありません。
ここでも大切なのは、教えの一部分だけを切り取らないことです。
十夜法要は、日々のお念仏を新たにする日
十夜法要は、「この日だけ念仏をする日」ではありません。
普段それぞれの生活の中で称えているお念仏を、時と場所を定め、皆で集まり、いつも以上に丁寧に、盛大にお称えする日です。
このように特別な時と場所を定めて修する念仏の法要を「別時念仏」といいます。
毎日同じことを続けていると、どれほどありがたいことであっても、いつの間にか慣れてしまうものです。
だからこそ、ときには立ち止まり、皆で集まり、お供えをし、お経を唱え、声を合わせて「南無阿弥陀仏」と称える。
そうすることで、
「ああ、お念仏とはありがたいものだった」
「また明日から称えていこう」
と、自分自身の信仰を新たにすることができます。
十夜法要とは、そのような大切な機会なのだと思います。
今日の一声を、明日へとつないでいく
お念仏は、一声であっても決して空しいものではありません。
けれども、「一度称えたから、もうよい」というものでもありません。
今日のお念仏を大切にし、その一声を明日へ、また次の日へとつないでいく。
その積み重ねの先に、人生最後のお念仏があります。
今年も浄楽寺では十夜法要をお勤めいたします。
どうぞお十夜にお参りいただき、皆さまとともに「南無阿弥陀仏」とお称えください。
そしてその一日が、改めてお念仏のありがたさに気づき、日々の暮らしの中でお念仏を相続していくきっかけとなれば幸いです。
南無阿弥陀仏。

