2024年、法然上人が43歳で浄土宗を開宗されてから850年の月日が経とうとしています。
現在、全国では浄土宗開宗850年を記念して様々な事業が行われています。
昨年、浄楽寺におきましても、 増上寺布教師会の神奈川メンバーにて、 記念対談・記念念仏などが行われました。
800年以上もお念仏が縁としてつながり、 現代のわれわれの元にも教えとして伝わっているとは、本当に有難いことです。
法然上人がお念仏のみ教えに導いて下さらなければ、 来世での極楽往生は叶わず、輪廻を繰り返すばかりでした。
この850年のありがたさを皆さんにも感じていただくために、 法然上人の一代記を連載でお送りしたいと思います。
「父の死と遺言」
勢至丸は父・時国の元で武士としての教育を受け、 将来は武士として生きるものだと思っていました。
賢い子だったのでしょう。
時には大人のようにふるまう一面もあったと伝えられています。
そんな勢至丸が九歳になった年、 父・時国が夜討ちに会い亡くなってしまいます。
荘園を管理する預所の定明(さだあきら)が、 地方警察である押領使の時国を討つという事件で、 領地侵犯などの軋轢から生じたことと推察できます。
定明の夜襲に攻防するも、 時国は瀕死のけがを負ってしまいました。
このとき、勢至丸は物陰に隠れ様子を伺っていましたが、 定明が矢を放つのを見て、定明めがけて矢を放ちました。
子どもながらに武士。 逃げることなく弓を取り、敵に立ち向かっていったのです。
見事、矢は定明らの眉間に突き刺さりました。
討ち取るまでとはいきませんが、大きな傷跡が残ります。
その傷跡が目印となり夜襲の犯人と発覚することを恐れ、 定明はすぐさま姿をくらましました。
こうして定明を撃退しましたが、時国は重体に至ります。
自らの死が近いことを悟り、 九歳の勢至丸を枕元に呼び寄せると、 驚くべき遺言を残しました。
「勢至丸よ、私はこの傷で死んでしまうことだろう。 しかし、敵を怨んではいけないよ。 これは前世から続く因縁であり、 かたき討ちは永遠に続く争いの始まりとなるだろう。 怨みを捨て、あなたは僧侶になり、私を供養してほしい。 そして自らも安らかな境地へと達することを目指してほしい。」
時国は自らの仇討ちを禁じて、勢至丸の出家を望んだのです。
武士の子は親の仇討ちが名誉とされた時代です。
名誉を捨て僧を目指せという思いがけない遺言に勢至丸も大層驚かれたことでしょう。
武士の子に生まれ、 武士として生きていくことを定められていた勢至丸にとって、 この遺言と、父の死は大きな人生の岐路となります。
武士の子として、 父の仇を討ちたいという思いは当然のごとく沸き起こったことでしょう。
しかし、勢至丸は父の遺言を心に刻みます。
そうして勢至丸は出家を志していくのでした。
続く
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