「ありがたし 今日の一日(ひとひ)もわが命めぐみたまえり天(あめ)と地(つち)と人と」 佐佐木信綱さんのお歌です。
人の助けと天地の恵みの元に我が身があります。
我々人は衣食住何をとっても一人では得ることができない存在ですが、 油断をすると自分本位で生きてしまう存在です。
自らを省みる事がなければ「自分だけが良ければいい」という心が育まれてしまいます。
5月のことですが、 「カエルの鳴き声による騒音に毎年悩まされています。 鳴き声が煩くて眠ることができず非常に苦痛です。 騒音対策のご対応お願いします。 近隣住民より」という張り紙が農地に張られていたというニュースがありました。
以前には「除夜の鐘がうるさい」と苦情が多発し除夜の鐘を中止するお寺があることも取り上げられていました。
在宅勤務(テレワーク)や子育て世代からは小学校通学時の声がうるさいという苦情も多発しているようです。皆さんはこれを聞いてどう思われるでしょうか。
育った環境や交友関係、社会的な立場、好み、趣味などが異なる以上、当然のことですが、自分にとって大切なもの、心地のいい状態は人によって異なります。
ですから、自分の「正しい」や「善」に執着し、 自分の考え方を他人に強制しようとすると両者の考えはぶつかり、 譲れない心、違いを受け入れられない心ばかりが育ちます。
社会の中で生きていくには人との関りを避けることはできません。
心の平和を実現するには互いを理解し尊重しようとする姿勢が大切です。
聖徳太子の十七条憲法第一条「和を以て貴しとなす」という言葉に日本人の平和の心を考えることができます。
太子は 「人々が互いを思いやり、進んで協力し合うことが争いの無い社会を作ることにつながる」と和の心を勧めています。
この和とはまさに、仏の心である「慈悲の心」であります。
悲とは抜苦、慈とは与楽と表されますが、 共に悲しみ苦しみを取り除く助けとなること、 相手を慈しみ安らぎを与えることを意味しています。
仏さまの目線からすると救う対象に与えることが主となりますが、 人の立場としては共に生きるものとして、 楽しみも苦しみも分かち合うことが慈悲ということになります。
違いを受け入れ、受け入れていただくことの中でしか平和は成り立ちません。
一時の感情で貪りの心を表に出すのではなく、 自分はどのようにして生きてくることができたのか、 これからどのようにして生を続けていけるのかを考える中に、 自らを省みることができます。
そして、自らの至らなさを知って初めて、 相手を思いやる慈悲の心が育まれます。
最上の善行であり、慈悲行でもあるお念仏を日々にお称えし、 自分の常識に執着せず、違いを受け入れる心を耕していきましょう。
南無阿弥陀仏