「震災の傷跡」
令和五年三月十一日、 東日本大震災から丸十二年目の十三回忌を迎えました。
この機に浄土宗の研修会が東北で開かれたので十三回忌の法要に伺い、 研修に参加してきました。
宮城県石巻の西光寺ご住職と遺族の会の山田(仮称)さんのご講演が強く心に残っています。
「傷はいつか癒える。時と共に悲しみは薄らぐ。そんな言葉は聞きたくない。 私たちはまだ絶望の淵にいます」
山田さんは涙ながらに強い言葉で話し始めました。
震災により亡くなった西光寺の檀家は合計三百三名。
その遺族会を結成し、心の拠り所、気持ちを分け合う場所を作ったのが山田さんです。
石巻は津波の影響が大きく、家も学校も流され、 たくさんの方がなくなりました。
建物の上に船が乗っていた光景は今でも印象に残っています。
あの時こうしていたら、なぜ自分だけが生き残ったのだろう。 山田さんは、わが子を津波で亡くし、強い懴悔の念に苦しめられていました。
震災から一か月ほど過ぎたある日、 ご住職のもとに山田さんのもう一人の息子さんが駆け付けたそうです。
「母が今にも自死してしまいそうです。どうか助けてください」 住職は山田さんのもとに行くと、
「息子にまた会いたいか?死んだら会えると思っているのか?このままでは会えるはずがないだろ。ちゃんと阿弥陀様にお願いして、息子を極楽に導いていただいて、そのうえでお前も極楽に行かなきゃ会えるはずがないだろう。このままじゃ、俺が先に息子さんに会うことになってしまうよ。さぁどうするんだ」
何度も何度も同じ話をしたそうです。
「遺族は簡単に念仏は称えられない。阿弥陀様と仰ぐ心にはなれない。絶望の淵に立たされて、それで唯一の希望だとその教えが腑に落ちた時、念仏は声になります。」 住職はそう言っていました。
「今でも苦しい時もあります。でも、やっと心からのお念仏を称えて、いつか息子とあえることを強く望んでいます。」
十二年という月日がたち、遠方の方からすれば過ぎた出来事、 でも今でも苦しんでいる人は多くいます。
その痛みを本当の意味で理解することはできません。 当人のみが知るところです。
それでも、法然上人が説いてくださった念仏のみ教えは 今でも多くの方に安らぎと希望を与えています。
先立たば 送るる人を待ちやせん 花の うてなの なかば残して
諦めているから葬式をしているわけじゃない。
大事にしているからしっかりとお葬式をする。
涙を流して必死に救いを求める心が必死に念仏を称える心に変わる。
いつか会える日を待ち望んで。
日々、お念仏を共々にお称えしましょう。
南無阿弥陀仏