新年早々にして、悲しい出来事が多発しています。 能登震災物故者、被災者の皆様には心よりのお悔やみを申し上げるとともに、お見舞いを申し上げます。
「どうにもならないことがある」
改めてそう思い知らされることとなりました。
テレビやネットのニュースを見ているとただただ、
悲しい思いが湧いてきます。
お釈迦様が説かれた通り、生者必滅・会者定離。
人が生まれて死にゆくことはこの世の道理であります。
それでも、なんとかしたいと道理の外を望むのが我々、人です。
元気でいたい、健康でいたい、若くありたい、 幸せが欲しい、長生きしたい、してほしい。
しかし、この世で求める幸せはどこまで行ってもかりそめの仕合わせです。
うつろい儚いものばかりです。
無常のこの世の中では、よい状態が永遠に続くことはないのです。
だからこそ、自力の儚さ、虚しさを改めて考える必要があります。
そして自力ではかなえられない願いを、阿弥陀仏の他力をいただき、望むのです。
「ただ心の善悪を顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず、心に往生せんと欲(おも)ひて、口に南無阿彌陀佛ととなえては、聲(こえ)につきて決定往生の思いをなすべし」
法然上人の御法語の一節です。
ただ心の善悪をものともせず、罪の軽い重いを問題とせず、 心に「極楽に往生したい」とねがって、声に出して南無阿弥陀仏ととなえては、 声に合わせて「必ず極楽に往生できる」という思いを抱きなさい。
ということです。
仏教とは因果の教えです。 原因があって結果があります。 善い行いがよい結果を生む善因善果、 悪しき行いが悪しき結果を生む悪因悪果です。
しかし、善を望む心はあれど、どこまでも自分勝手な私です。
震災が起きたのが自分のいる地域じゃなくてよかった。
声にはできませんがそう思ってしまった人もいることでしょう。
ですから自分の善の行いで善の結果だけを導くことはできません。
だからこそ、心の善悪にとらわれず、なのです。
さらに、仏教は戒律というルールの中にある教えです。
この戒を保つことが正しさであり、罪から離れることです。
しかし、清く在りたいと望んでも、清くあり続けることはできません。 たとえば日々の行いをすべて他のために尽くすことはできません。 それが人です。ですから、罪の軽重を沙汰せずなのです。
「どうして自分だけが…」そう思ってしまう場面はいくつもあります。 この因果の教えから考えると、まるで自分の行いがすべての原因であるようにも感じてしまいます。しかし、そんなことはありません。
様々な縁の中で物事は起きるのです。 それをすべて予測することも、避けることも我々人の「自力」ではままなりません。 どこまでも自力には限界があるのです。
儚きこの世の幸せだけを願い、 得る苦しみの支配から離れるためにも、 心に「極楽浄土」に生まれたいと望んで、 念仏を声に出すことが大切だと説きます。
極楽は苦悩の一切ない世界、楽の極みです。 阿弥陀仏の他力があってこそ導かれる永遠の幸せです。 願わくばすべての失われた尊い命が極楽浄土に導かれることを願います。
南無阿弥陀仏
#法然上人 #念仏 #浄楽寺 #ネット法話
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