日本語は他国に比べても、ワードが非常に多いです。
日本人として正しく本来の言葉の意味を理解して言葉を使いたいものです。
そんな本日は「工夫」ということばについて。
~人生は工夫と集中~
発明王のエジソンは「必要は発明の母」といった。
日常生活で「こうだったら便利だろうな」と考えて工夫することが、一大発明を生むというわけだ。
ところでこの「工夫」という言葉は
「人夫工手間(にんぷくでま)」
を略したものである。
人手(現在の職人)の仕事にはさまざまな手間がかけられている。
創意工夫をこらして、これをこなしていくのが彼らの仕事である。
仏教の禅宗はこの「工夫」を精神的にも重視すべきだという考え方を持っている。
仏道修行において「つねに努力して坐禅に励み思念をこらす」という意味で「工夫」を奨励したわけだ。
また、このことから、禅宗では日常生活で行う全てのことに対して、意識を徹底的に集中させて手間をかけることが大切であるとしている。
ただ、漠然と生きるのではなく、その時その一瞬を一生懸命に「工夫」していってこそ、充実した人生が歩めるというものなのだろうか。
目標に向けて常に工夫をこらして活路を見出す。
なかなかできることではないが、心掛けたいことではある。
そう考えると工夫とは
自発的に行うべきものであることがわかる。
だれかに「工夫しなさい」と言われて行うものではない。
禅宗の僧侶の方の話を聞いたことがある。
「禅宗では坐禅を持って無心となり、無となることで執着を失くすために修行するんです。でも、座禅は行えば行うほど、慣れればなれるほど、行っている間に無数の煩悩が頭の中に沸き起こります。頭の中では「今日の夕飯は何かなぁ」などと考えてしまうことが多いのも事実です。しかし、そんな自分をも律して修行に励むことで空を目指すのです。」
僧侶の皆様も、日々の中に何かしらの工夫をこらして自らの煩悩と闘い、修行に気持ちが向けられるように変化を求めたのかもしれない。
浄土宗の宗祖法然上人は専修念仏を勧めた人である。
「極楽往生して、極楽にて仏になることを望むのであれば(これは全世界全宗派共通の仏教の最終目的であり真の目的)他の修行を差し置いても南無阿弥陀仏とただ阿弥陀仏の名前を呼ぶお念仏の修行を行いなさい」
と申されました。
他の修行を差し置いても念仏を行うということは、極端に言えばそれだけでもいいということになる。
全種の坐禅のように、ただこれだけを行えばいいとなると僧侶と言えど人間である。
慣れと共に、新鮮な、真剣な心も薄れていってしまう場合がある。
そうすると妄念が増え、煩悩に悩まされる。
だからこそ、「別時」といって、時と場所を事前に決めて、
心の置き方を再認識できるように修行をすることも大切であると申された。
私たちは人間である。
どこまでも自分の欲から逃れることはできない至らない存在。 どんな場面でも
工夫を凝らして、活路を見出したい。
南無阿弥陀仏