4月8日はお釈迦様の誕生日。浄楽寺では一ヶ月遅れの5月8日に行うことが通例となっております。お釈迦様は今のネパールとインドの国境付近にあるカピラ城(釈迦族)の王子として誕生しました。
有名な話ですが、お母さんのわき腹に白い像が入った夢を見て懐妊し、十月十日になる前にお生まれになったとのことです。4月のお言葉でもありましたが、お釈迦様はお生まれになってすぐ立ち上がり、7歩歩き、「天上天下唯我独尊」とおっしゃられたということです。「我この世界にただ一人の尊き存在である。」お釈迦様は後に、一人ひとりの「価値」、「存在」についても説かれるようになります。また、この7歩というのが論議をかもしだすところで、様々ないわれがあります。こちらはまた今度。
お釈迦様の誕生をお祝いするかのように、乾季であるのに花は咲き乱れ、動物は皆近寄り、天は甘露の雨を降られたといいます。そんな中に生まれてきたお釈迦様、当時の名前はシッダールタといいます。
「願いが満たされたもの」として父のシュッドーダナ王(釈迦族の王)と養母のマハーパジャーパティに育てられました(生みの親であるマーヤー夫人はお釈迦様を出産されてすぐにお亡くなりになってしまったということです。マハーパジャーパティはこの実のお母さんの妹です)。念願の男の子でしたので大切に大切に育てられていたことでしょう。
ある農耕祭の日、農夫が畑を耕していると、地中から掘りおこされた虫が、どこからともなく飛んで来た鳥に食べられてしまいました。シッダールタは「ああ、生き物はなぜお互いに殺し合わねばならないのか」と思い悩まれたということです。このエピソードからも察するとおり、シッダールタは物事に感慨ふけるような性格であったといいます。
十六歳で隣国の王女ヤショーダラ姫を妻に迎え結婚生活に入り、一子ラフーラが生まれました。幸福そのもののように見える結婚生活も、当時のシッダールタの悩みを解決するものではありませんでした。
そして、四門出遊のエピソードです。従者とともに城の東西南北の門から城の外に出ると、各門に、ひどい病気のもの、老い醜いもの、死んで捨てられているものを見かけます。絶望のふちにいるところに最後の門で、すがすがしい顔をした僧侶に出会います。それをみて、僧侶になる道にこそ、全ての悩み苦しみを解決できる方法があるはず…と出家を決め、王子の身分を捨て、裸一貫で修行の道を歩みだしました。
その後様々な修行を重ね、最後、瞑想の末に菩提樹の木の下で真理を悟られました(シッダールタ三十五歳)。そして「目覚めたもの」であるブッタ(お釈迦様)と呼ばれるようになるのです。お釈迦様は入滅される八十歳まで教えを説き続けました。
お釈迦様の教えは「苦しみから逃れる(開放される)こと」を目的にしています。
人間には人それぞれの苦しみがあります。他人が理解できないこともあるでしょう。
お釈迦様は「対機説法」として、目の前のその人に合わせた喩え話を用いて、その悩みを真理により説明し、解決してあげるという「心のお医者様」のような存在でした。
「縁起」全ての物事には原因があり、結果がある。
結果は原因により引き起こされるということです。
それを一人ひとりに合わせてやさしくお説きになられました。
お釈迦様が説かれた教えの中に四苦八苦がありますが、まさにこの中の「死」について、とても真剣に考えられた方です。ですから、お釈迦様は自分に寿命があることを知っています。いつか自分の肉体も滅び、自らが生きながらえることは出来ないと理解していたのです。
自灯明・法灯明のお話がありますが、自分自身はその存在がなくなってしまうから、その存在している自らと、真理である「法」、つまり教えをよりどころとしなさいというものでした。
しかし、そんな中お釈迦様は阿弥陀様をお勧めになられました。
自分がいなくなっては誰も六道から逃れることは出来ない。だから、阿弥陀様を頼り皆が平等に救われる道をとお勧めになってくださったのです。
お釈迦様も釈迦牟尼佛。その大慈悲の元に様々な方を救いの道へと導きます。
阿弥陀様は私たちではどうしようもないことも、かわりに作ってくださった功徳で善き方向へ導いてくださいます。
法然上人は「念仏は弥陀にも利生の本願、釈迦にも出生の本懐なり」とおっしゃっております。
お釈迦様の出生の本懐でもあります「お念仏」。
ぜひとも、花祭りの祭には、お念仏でお釈迦様の生誕のお祝いをさせて頂きましょう。
転ばぬ先の杖「お念仏」こそがお釈迦様のお祝いにもぴったりな、私たちにできる唯一の修行ではないでしょうか。