11月のネット法話「法然上人の凡夫観」



令和5年に浄土宗が850周年を迎えます。


鎌倉新仏教といわれた浄土宗がここまで続いてきたのには、 「機に合った教え」であることの証です。


機とは英語で言うと「chance」と訳されますが、 仏教では「対象、能力、また能力を有する人」で用います。


つまり、「機に合った教え」というのは、 「人々の能力に合った」教えということになります。


では、機に合った教えがなぜ続くのかということですが、 当然ながら教えは自分に当てはめて考えるものです。


全く見当違いな教えでは自分に当てはめることができません。


夏には夏服を選び、冬には冬服を選ぶ。

移動には自転車や、車や新幹線をその都合に合わせて選ぶ。

食事も体調の悪いとき、いいときに合わせて選ぶ。


我々人は自分に合わせて最適なものを「選ぶ」のです。

ですから、浄土宗の教えは望んで選ばれてきた教えであるといえます。


 法然上人はこの「機」を自らでたとえ「三学非器」と説かれました。


三学とは仏教の根本でもある 「自らを戒め正しく過ごし、自らの心を定め正しく過ごし、正しい智慧を持って物事を見る」のことです。


この三学の器にあらずとは、 自らを仏教の教えに則って戒めることもできず、 心は一喜一憂し定まることが無く、 世の中の道理を理解することができないということになります。


人としての生を成してからこのかた、 我々は正しく生きることに真剣に向き合わず、 日々をただあるがままに過ごし、 善いことを進んで行うこともせず、 目の前で起きた事に腹を立て、 時に喜び、 不服を口にすることを楽しみとする、 そんな毎日が少なからずだれにでもあるものです。


こういった人を「凡夫」といいます。


法然上人は呆けている人だけがこの三学の器にないということではなく、 今の人の「機」がいずれもそうであると説かれています。


正しく努力していると自覚するものも仏さまの目から見れば どんぐりの背比べであるということです。


そういった時代の中で、 法然上人の「念仏一行」の教えは、 他力、つまり阿弥陀仏のお迎えにより極楽に救われることを説き、 だれにでも対応する教えであるのです。


ただ念仏称えれば救われる。 ただそれだけである。


この念仏のみ教えは、 850年間大切にされてきました。



 本当の自分と切に向き合ったとき、 ただ念佛を称えることしかできないと覚る。


そして、念仏を称える心に、 初めて正しい生き方が備わる。


そうして凡夫は菩薩へと成っていくのです。


南無阿弥陀仏

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