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8月のネット法話「終わり良ければすべて良し…とはいかない」

更新日:2022年9月3日



熱中症警戒アラートが毎日のように発令され、 コロナ感染者は日々増加し、 異国の疫病サル痘まで日本上陸しました。


外に出るのが嫌になってしまいますね。


しかし、家の中に引きこもってばかりでは生活ができないのが現実です。


心穏やかなる日はまだ遠いのでしょうか。



鎌倉時代、大胡太郎実秀という法然上人に古くから 深く帰依していた武士が上人に手紙を出しました。


質問の内容は「『臨終の最期に心がやすらかで念仏を称えたものだけが往生できる』と言うものがおりますが、確かでしょうか。」


これに対し上人は 「仏、慈悲をもて加え祐(たす)けて、心をして乱らしめ給わず」と伝えています。


直訳すると「阿弥陀仏は来迎の際に慈悲の心をもって祐け、臨終のその心乱れないようにしてくれる」となります。


前者は「これまでどんなことをしてきても、最後に心が安らかでいて、 なおかつ念仏をその安らかな状態で称えられたなら極楽に生まれることができる」 ということで、法然上人の説かれたことは 「日々にお念仏を称えるから最後には阿弥陀仏がお迎えに来て下さり、 そのお姿を見て心が安らかになる」ということです。


似て非なることです。


法然上人は「武士と僧侶はその最後にして恥辱が現れる」 とたびたび口にしていたそうです。


武士は戦にして武勇か卑怯かがわかる、 僧侶は平素に立派なことを言っていても、 臨終が散々なら汚れ僧である。


なるほど、日々の行いと、窮地での行いが相違なれば、 日々の行いや言動や信仰は本心ではないということです。


逆に言えば、日々の行いや言動や信仰を本心から行っている人は 最後にも同様の事ができるということでしょう。


ですから法然上人は、念仏申すことが阿弥陀仏の来迎につながる、 さらに、だれでも心が乱れてしまうような臨終も、 必ず阿弥陀仏がお迎えに来て下さるという日々の信仰が安心を生むと説かれているのです。



終わり良ければすべてよしという言葉は、あたかも、 最後だけ良ければその過程はどんなものでもいいと思われがちですが、 日々の行いこそがその「最後」を作っていることは言うに及びません。


嫌な事ばかり考えて、行動に出ないうちに、 いつの間にか最後が来てしまうかもしれません。


今のうちに、今日のうちに、明日の自分のために、 やり残しの内容に日々を過ごしてまいりましょう。


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